今回のトップ記事は副編集長ジョーが取材&執筆したのですが、取材中、編集長は何をしていたのかというと、笛を吹いていました♪
というわけで、笛を吹いていた私の感想(?)も載せておきます。非常に個人的な体験ですが^^
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2011年6月。初めて雄勝の地に立ったときのことを、私は生涯忘れないだろう。釜谷トンネルを抜けたあとに広がっていた景色は、まるで戦争の後だった。真っ二つに折れた電柱。ブルーシートで囲われた遺体収容現場。扉を開けた瞬間にハエが一斉に舞う仮設トイレ。それでも、雄勝の海はため息が出るほど美しかった。
2011年12月、私が「仮設きずな新聞」の記者になることが決まった頃に出会ったのが、雄勝で獅子振りをやっていた佐藤均さんだ。「獅子も太鼓も流されたが、今度隣の部落から獅子頭を借りて振るんだ」。その瞳の輝きに思わず引き込まれ、気付けば取材を申し込んでいた。
初めての取材。ドキドキしながら雄勝に向かった。「皆仮設暮らし。集まって練習できる場所もないので、ぶっつけ本番。それでも雄勝のためにと集まった。他の誰でもない、雄勝に頼まれたのだからやらなきゃない」。佐藤さんの表情には気合いがみなぎっていた。100人ほどの観客が見守る中、お囃子がスタート。徐々に激しさを増す2頭の獅子の舞をファインダー越しに見ながら、私は何か熱いものを感じた。腹に響く太鼓と軽快な笛の音、ぶっつけ本番とは思えない息のあった獅子の動き、揃いの法被も流されて衣装はマチマチだけれど、皆の心は一つだった。
あれから7年。私は今年、佐藤さんが所属する胴ばやし獅子舞味噌作愛好連の皆さんと共に、篠笛奏者として春祈祷に参加する幸運を得た。中学の頃からフルートをやっていた私は、篠笛の音が難なく出せたのだ。そのことを知った佐藤さんは7年前、私に「味噌作愛好連で篠笛を吹かないか」と、それはそれは熱心に誘ってくれた。内心うれしかったが、私は「これは雄勝の伝統芸能。雄勝の人がやってこそ意味がある」と思い留まった。
しかし、佐藤さんはその後も何度となく声を掛けてくれた。そしていつしか思うようになった。「伝統芸能の担い手が少なくなる中で、私のようなよそ者でも伝承の担い手になる意味があるのでは」。西洋音楽と違い、お囃子には楽譜が存在しない。生きた人間にしか、このお囃子を後世に伝えることができないのだ。
今でこそ「雄勝に何百年伝わる伝統芸能」の地位を築いた獅子ふりもお神楽も、元はどこか別の地域から伝わったものだ。そうでなければ、太鼓も篠笛も獅子も、こんなに全国に分布していないだろう。つまり、文化は必ずしもその地域で生まれ、独自に深化したわけではなく、そこには文化を媒介する人(=よそ者)が存在したのだ。文化が深化する過程でよそ者が存在したのだから、文化を伝承する過程によそ者が居てもいいのではないか。
長年、西洋音楽にしか触れていない私に、楽譜のないお囃子を覚えるのは至難だった。楽譜がないということは、つまり吹ける人の指を見て覚えるのだ。西洋音楽をやって来た人なら分かると思うが、これは私たちの常識ではあり得ない。途中諦めかけながらも、篠笛奏者の太鼓奏者の友人夫妻に何時間も練習に付き合ってもらい、当日を迎えた。玄関先で、目に涙を浮かべながら獅子を見つめる住民の方々を見て、「やって良かったのだ」と思えた。まちが流されても、住む場所が変わっても、伝統の灯を絶やさないことが生きる力になることもある。
いつか「味噌作のお囃子を吹きたい」という若者が現れたら、その時は教えられるようになりたいと思う。連綿と受け継がれてきた地域の文化を次世代につなぐ担い手になれたら本望だ。
(石巻復興きずな新聞第30号「十五浜だより~雄勝の過去・現在・未来を語ろう~」より抜粋・加筆)
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(編集長 あき)